絵里子の目の前には休耕田が広がっている。ここは、この前、面接の帰りに卒業研究で使う生物を捕獲して泥だらけになってしまった場所だ。あの日、リクルートスーツのまま泥だらけになってしまった時の感覚が忘れられなかった。
普段、リクルートスーツを着ている時は、泥などで汚れるのはもちろんのこと、雨で濡れたりしないようとスーツを綺麗に保つことに細心の注意を払うものである。しかし、だからこそ、自らの意志で濡れたり汚れたりするという非日常性に絵里子は引きつけられるのであった。この前、休耕田で泥だらけになってしまって以来、普段汚してはいけない服の代表格でもあるスーツを着たまま泥んこ遊びをすることに目覚めてしまったのだった。
この前、泥だらけにしてしまったリクルートスーツは自宅で丸洗いし、洗濯機で脱水し乾燥させた後、皺だらけのスーツをなんとか伸ばしてからクリーニングに出した。何とか就職活動で再び着ることができる状態に復活させたばかりであった。
今、絵里子は、休耕田の前に立っているが、そのリクルートスーツではなく、なんとオフホワイトに近い色合いのベージュのスーツを着ている。このスーツは大学入学時に姉からもらったものだ。姉はすでに社会人だったが、もう着る機会がないからということで黒やチャコール色のリクルートスーツを含め、何着かスーツをもらってきたのであった。ベージュのスーツなんて大学在学時に着る機会はないだろうと思っていたが、まさか、こんな時に着るときになるとは・・・・と不思議な気分であった。
ゆっくりと田んぼの中に入っていく。パンプスは数歩足を踏み入れただけで泥にはまって脱げてしまうことは経験済だったので、脱いでパンストのみ穿いた状態で田んぼの中に入っていった。夏の炎天下、スーツ姿で田んぼの中に入っている光景は傍から見れば不自然なものに違いなかった。周囲には人が寄り付く気配はなく、気兼ねなく泥んこ遊びに興じることができる環境だった。
まずは、粘着度の高い泥の上にお尻を着いて座ってみた。何度も何度も上下運動をして泥をスカートのお尻部分に着けるようにしたり、いざってみたりした。自分では確認することができないが、泥でスカートのお尻部分が大変なことになっているだろうことを考えると絵里子は気持ちよくなった。
「(・・・お姉ちゃん、ごめんね。こんなことしちゃって・・・。)」
姉が通勤時に何度か着用したと思われるベージュのスーツは泥まみれになる序章を終え、第二幕へと導かれるのであった。
絵里子は童心に戻った気分に浸り、少女時代に泥んこ遊びをした感覚を思い出しながら泥を手ですくって、田んぼの中で座り込んだままスカートの前面やジャケットに塗りたぐっていった。
そして、気持ちを抑えきれなくなり、田んぼの上にうつ伏せになって泥に身体をあずけた。生温かくドロドロした感触がスーツ越しに伝わってくる。スーツを泥だらけにするという行為の代償に、天然のマッサージが絵里子の全身を気持ちよく癒してくれた。
スーツの前面は泥だらけになっていたが、背中はまだ汚れていないであろうことが理子には分かっていた。どうせならスーツ全体を泥でコーティングしたいと思い、泥の中で仰向けになったりうつ伏せになったりを繰り返していった。
そして、水と泥がちょうどよく混ざり合った部分を見つけ、人間ムツゴロウになって這いながら進んだ。スーツは泥が付着したというよりも、泥と同化したような状態になっていた。そして、さらに激しく、大胆に泥の中で遊んでいるうちにスーツはもうジャケットとスカートの境目が分からないほどになっていた。
泥だらけになることが・・・それもスーツのように普段、汚さないように注意して着るはずの服で泥んこ遊びをすることが、こんなにも気持ち良いものなのだと絵里子は心の奥底から感じた。
この前、生物の捕獲で泥だらけになったのは、あくまでも結果的に泥だらけになった。それでも、いけないことをしてしまったという背徳感とそれを打ち消すほどの泥だらけの自分の姿に対する不思議な満足感があった。
しかし、今日は、泥だらけになるためだけにスーツ姿でこの場所に来たのであった。絵里子の心に芽生え始めていた「泥だらけになること」に対する幸福感は強固なものになった。
日が暮れ始めていたので帰り支度をしようと、未練ある泥田に別れの「全身ボディタッチ」をした。そして、田んぼの脇にある水道場でスーツにホースの水を勢いよくかけて泥を洗い流した。泥の塊は落ちるが、スーツの生地に染み込んだ汚れはかなりのものでいくら洗っても色が落ちない。オフホワイトに近いベージュ色だった生地が薄茶色になってしまった。
一通り洗い終えるとジャケットを脱ぎブラウスの汚れもある程度落とし、歩いて帰りの途についた。絵里子は、また機会を見て泥んこ遊びをしにこようと思うのであった。
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