絵里子は精神的な苦境も乗り越え、なんとか内定を勝ち取ることができた。
今日は内定をもらった農業関連会社が内定者を対象に実施する農業体験の日となっていた。朝から天気は曇だ。カンカン照りの陽気だと汗びっしょりになるので、このくらいがちょうど良いと絵里子は思った。
今日実施される農業体験は、そこまで本格的なものではなく、くるぶしからふくらはぎ位までの深さの水田に入って、草むしりをして、農業のイロハの話を農家の人から聞くというものである。農業に関連する業務を行ったり、農作物を農家から買い取って販売なども行っている企業なので、実際に農業の大変さを学んでいくという入社後の研修へとつながる内定者への初歩的なプログラムである。
実際に春になって社会人としてスタートするときは泥だらけになって行う作業もあるのでジャージなど汚れても良い恰好で行うのであるが、内定者への農業体験はよほどのことが無い限り服が汚れることはない。会社からは万一のために着替えを持ってくるように注意喚起もされているが、農業体験にはみんなスーツ姿で参加するのが通例となっていた。農業体験のあとは先輩社員たちとの懇親会も控えているため、着替えの手間・時間を省くというのが理由だ。
もちろん、絵里子もスーツ着用で参加している。周りの女子内定者を見るとリクルートスーツ姿も散見されるが、社会人になることを意識してか薄いストライプの入ったものや、格子柄のものなどのフレッシャーズスーツを着ているものの方が多いようだ。
絵里子は先日仕立てたばかりのダークグレーのスーツだ。オーダーメイドだけあって体にぴったりフィットしている。スーツの生地には薄い白の格子柄が入っている。ブラウスはちょっとOL気取りでかわいらしいボウタイブラウスだ。スーツもブラウスも社会人になってから通勤時に着ようと思っているスーツであるが、絵里子は今後もスーツを買い増す予定なので、社会人になってから着るつもりで購入した1着目のスーツを先取りして着てみたいと思ったのだ。
いよいよ農業体験が始まろうとしていた。絵里子がずっと遠くの方に何気なく目をやると青空が垣間見えるのに、絵里子たちがいる田んぼの真上はいつのまにかどんよりした分厚い灰色の雲に覆われていた。何かにとりつかれたような不思議な感覚になってきた・・・。
そんな空模様にはみんな気が付いていないのだろうか、年配の男性が農業体験の始まりを宣言し、手始めに1人5本の雑草を取るようにとの指示が出た。絵里子を含め、参加者はみんな着替えをもってきているようだが、スーツに泥ハネがとんだりしないように注意しながら、水田の中に入った。
参加者は泥の感触を足裏で感じながら、注意しながらゆっくり歩いて指示に従いながら草むしりをはじめた。男子たちはパンツを太腿くらいまで上げて洗濯バサミやゴムで裾が落ちないようにしていたが、女子たちはタイトスカートを捲ったりして丈を短くするわけにはいかないので、ほとんどの女子が膝丈前後であった。
そのため、うっかりしゃがんだりでもしたらスカートの裾が泥水で汚れてしまう事になるので、絵里子も細心の注意を払いながら草むしりをしていた。
「【あぶない、伏せて!】」
「(・・・今の声、何だろう?)」
絵里子は、どこからともなく聞こえてきた声にはっとした。
「【死なないで、伏せて!】」
「(私の声?! なになに・・・どうなってるの?)」
周囲を見渡すが何事もないように草むしりをしている参加者たちの様子からすると絵里子にしか声は聞こえていないようであった。伏せてといっても、何のためなのかが理解できなかった。
こんな状況で水田の中で伏せたらせっかくのスーツが泥だらけになってしまう。就職活動中にリクルートスーツのまま泥だらけになり、スーツのまま泥だらけになることの楽しさ・快感を感得したとはいえ、さすがに今着ているスーツを泥だらけにすることはできないと思った。
それにしても、自分の声で、あぶないとか、死なないで・・・といった言葉が聞こえてくるのが何よりも不可思議な現象であった。
「ゴロゴロゴロ・・・」
絵里子のみならず、水田にいる者すべてに聞こえる雷鳴であった。
「みなさん!念のため一旦畦道に上がってください。」
「ゴロゴロゴロ・・・ゴロゴロ、ドカーン!」
「【死なないで、伏せて!】」
尋常じゃない音量の雷鳴への恐怖と、どこからともなく聞こえてくる切迫し先ほどよりも大きな自分の声に絵里子は反応した。
・・・・・気が付くと絵里子は真新しいスーツのまま水田の中にうつ伏せになっていた。どれほどの時間が経ったのだろうか。一瞬だったのか、数分だったのか・・・・さえも分からなかった。呆然としながらゆっくりと立ち上がる。
確実なのは、畦道にいる心配そうな表情と安堵の表情が入り混じった参加者たちや先輩社員たちの視線を一手に浴び、水田のど真ん中で「生きている自分」が泥だらけのスーツ姿で存在しているということだった。
「(何があったの? 私・・・どうしたんだろう? あっ、雷は?)」
空を見上げると先ほどの空模様とはうって変わって青空が広がっていた。
「(・・・!・・・・さっきの声、間違いなく私の声だった。あれって、もしかして未来の自分の声?・・・でも、もし雷に打たれて死ぬ自分がいるとしたら、未来にそのことを知る私なんて存在しないはずだし・・。あっ、大学の量子力学の授業で聞いたことがあるパラレルワールドのこと?・・・どこかの世界に存在する自分が絶命する寸前に自分にむけて発した心の叫びだったのかも・・・。)」
絵里子は、今「この世界」に間違いなく存在している!
それだけで十分だと思った。社会人になってから着ようと思っていた真新しいスーツが泥だらけになってしまったことは「些細な事」であった。喜ばしい感情がふと心の奥底から沸きあがってきた・・・。
しばらく封印していたはずの「あの感覚」をまた呼び起こしてしまった。
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