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2013年1月15日 (火)

非日常世界へのいざない(3)・終


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 「アクション!」

 雨が強くグラウンドを打ちつけている。そんな中、傘をさしながらリクルートスーツ姿の絵里子は、今にも泣きだしそうな悲しい表情で男と話している。
 グラウンドには水たまりができはじめ、雨足がさらに強くなった。タイトスカートやジャケットには水しぶきがかかっている。

 男は足早にその場を立ち去る。絵里子は傘を投げ捨てすぐさまその後を追いかけようとした。
 リクルートスーツには容赦なく人工雨が降り注いでいるが、NGが許されないこのシーンに集中している絵里子は、何も気にするそぶりはなく演技を続けている。リクルートスーツ姿で潜水をしたかのように頭のてっぺんからつま先までずぶ濡れだ。

 すべてのセリフが終わり、あとは泥の水たまりに足を滑らせて転んでしまうシーンの撮影だけとなった。
 絵里子は男の後を追いかけ走り出した。

 パンプスが脱げ、足がもつれるようにしながらうまい具合に泥水の中に転んだ。スカートもジャケットも底がぬかるんだ泥水に浸かっている。絵里子の視線は男の後ろ姿のほうにあるが、立ち上がって追いかける気力はない。
 脱力感に包まれ、泥水の中にお尻をつけてしゃがみこみながら男を見送ることしかできない。

 やがて絵里子はゆっくりと立ち上がる。
 リクルートスーツはタイトスカートもジャケットも真っ茶色に染まっていた。そして、ジャケットから除く純白のプラウスの襟には泥ハネがとんでいるところもあった。クリーニング仕立てで、先ほどまで一糸乱れず綺麗だったリクルートスーツ一式が台無しだ。

 雨はより一層強くなり、泥で汚れたリクルートスーツを洗い流していく。リクルートスーツ姿でずぶ濡れとなっている絵里子を数台のカメラが違ったアングルから捉えている。
 カメラは遠くに目を向けている絵里子の姿をゆっくりとクローズアップしていく。頭から勢いよく滴り落ちる雨水にゆがんだ顔をしっかりと収める。

 「はい、OK!」

 監督のヒロシの声が弾んでいた。
 絵里子の出番の撮影シーンはこれで終わりだ。
 帰宅のことを考えると、撮影用の衣装を忘れたために、リクルートスーツ姿で撮影に臨まなくてはならなかった事の代償はあまりにも大きかったが、絵里子の中では無事に撮影が終わった安堵感の方がこの瞬間はまさっていた。

 「お疲れさま。バッチリ。」
 ヒロシは、重要かつNGが許されないシーンの撮影が予想以上の出来栄えだったことに満足しているものの、リクルートスーツ姿でずぶ濡れの絵里子を目の前にすると複雑な気分だった。
 大きなタオルを差し出した。今、絵里子に対してできる精一杯のことだった。

 「よかった~。本当に大丈夫だよね?」
 うなずくヒロシを一瞥し、タオルを受け取ると絵里子は顔と髪を丹念に拭いた。次に足の汚れをざっと拭き取ると、ずぶ濡れとなって薄茶色に濁った水が滴り落ちているスカートやジャケットにタオルを押し付け水分を吸収させていった。
 いく ら吸収してもすぐに乾くわけではないが、日差しが強く暑い陽気なので、ある程度時間をおけば自然乾燥しそうだった。

 ・・・・・・雨に濡れてリクルートスーツが徐々に重たくなっていく感触と・・・、底がぬかるんだ泥水の中にうつ伏せたりしゃがみこんだ時の体の感触とリクルートスーツを汚してしまったことの罪悪感が・・・突然フラッシュバックし、不思議な感覚と快感にいざなわれた。
 何かが深層心理に働きかけ、潜在意識を顕在化しはじめた。何の束縛もない幼少期に、近所の友達と水遊びしたり泥んこ遊びした、あの悠久とも思えた楽しい感覚が深い眠りから目覚めた瞬間だった。

 気が付くと、撮影現場へ向かう時に通った河川敷の堤防を駅に向かって歩いていた。すでにリクルートスーツは乾きはじめていたが、泥汚れがしっかりと落ちていなかった部分が所々にあり、土埃が白っぽく浮き出てしまっていた。
 「(こんな汚れた状態じゃ電車に乗れないわ。)」
 堤防の上から川の方を眺めると水面がきらめいていて眩しかった。

  ・・・・・・川辺では突然、数人の小学生らしい男の子と女の子たちが水を掛け合って遊んでいる光景が出現した。むろんそれは、絵里子の昔の懐かしい記憶であった。

 徐々に心と体は、本能の赴くままに解放されていった。
 それは、自分を縛りつけていた心の鎖がほどけた瞬間でもあった。トランス状態に陥っている絵里子は、浅瀬から流れが緩やかな深みの方へとさらに足を踏み入れていった・・・。
(完)

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