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2012年5月12日 (土)

非日常的世界へのいざない(1)


 都内の某公園のグラウンドに、絵里子は、アイボリーのロングスカートにフリル付き白ブラウスといった春らしい装いでいる。
 流行の服や派手な服には興味はなく、コンサバ系ファッションが好みであるが、そのことが清楚でお嬢様風の雰囲気を漂わせている着こなしになっている。

 雨が降りしきる中、絵里子は傘をさしながら恋人らしき男と立ち話をしている。
 絵里子は何やら悲しげで、今にも泣き出しそうな表情で男の顔を見上げている。徐々に雨足は強くなり、グラウンドには水がたまり始め、傘に打ち付ける雨音が大きくなった。スカートの裾は雨で濡れ始めていたが、絵里子はまったく気にする素振りなどない。
 男は足早にその場を立ち去り、絵里子は傘を投げ捨て、すぐさまその後を追いかける。濡れたスカートが脚にまとわりつき、さらには、サンダルを履いているせいもあり走りずらそうだ。

 5、6歩ほど走って追いかけたが、サンダルが脱げ足がもつれて泥水のたまったグラウンドにうつぶせの状態になって転んでしまう。男は絵里子が転んだことに気がつくこともなく走り去っていく。
 上体を起こすが立ち上がって再び追いかける気力は一瞬のうちになくなってしまった。ぬかるみの上に座ったまま男の後ろ姿をただ呆然と見ている。

 今の絵里子の気持ちを代弁するかのように、天の涙が一段と強くなり容赦なく絵里子を頭から打ち付けている。ゆっくり立ち上がり傘を拾うこともせずに歩き出しはじめた。
 うつぶせになっていたために、スカートもブラウスも前面は泥で真っ茶色に染まっていた。汚れていない部分は全て雨でずぶ濡れの状態であった。先ほどまであんなに綺麗だったおろしたての服がこれで台無しだ。

 ここまでは、「予定通り」だったが想定外のことが起こってしまった。雨が突然止んでしまったのだ・・・。
 今までの静寂が一瞬のうちに喧騒へと変わった。

 「はい、カット!」

 そう、絵里子は大学の映画製作部に属している。大学生活最後の1年を映画製作にかけている。今回の作品では主役の座を射止め意気込んでいた。

 「おいっ、雨降らし、何やってんだよ。しばらく降らたままでおけと言っただろ!」
 と監督が雨降らし役の後輩に怒号をあげた。
 「はい、ごめんなさい。勢い良く降らせたらタンクの水が切れてしまいまして・・・」
 「言い訳なんかいいよ。撮り直しじゃないか!」

 自前の服がびしょ濡れ&泥だらけになった絵里子は残念そうに肩を落として監督のいる方に歩いていく。
 「このシーン・・・、1回で終わらせたかったのに。雨降らしは調節が難しいから未経験の新入生には無理だって言ったのに。」
 「ごめん。次回はまた戻すから。また週末にでも・・・。大変なシーンなのにほんと悪いね。」
 「えーと、今度の土日の午後からなら大丈夫だけど」
 「そう、じゃあ土曜の2時でどうかな?日曜は一応予備日で。」
 「うん、わかった。」
 「部の予算がないから服は自前にしちゃって悪いね。それにしても、白っぽい服を選ぶなんて絵里子らしいよね。役柄のイメージにもぴったりだし。(笑)でも、この服、洗濯してももう着れないよね?」
 「大事なシーンだし、インパクトあった方がいいと思って。」
 「まあ、それはそうだけど、次回はもっと地味なのでいいよ。汚れてもいい服ってまだあるの?」
 「この服、実は通販で安く買ったの。自分の服は、もう着なくなったからといっても汚したくないから。次回も適当に用意してくるから大丈夫。」
 「予算は出ないよ。」
 「うん、わかってる。気にしないで。」
 (絵里子はふと時計を見るなり慌てて帰り支度を始める)
 「あっ、もうこんな時間。この後予定あるから、今日はこれで。」
 「うん、じゃあ、また。」
 「(お疲れ様です!)」
 後輩らスタッフ達が絵里子に挨拶をする。

 絵里子は公園の水道の水で汚れを落としている。泥汚れの部分は薄くシミとなってやはり落ちない。しかし、もう着ない服だから気にはならないでいた。
 ここから自宅までは、バス・電車・徒歩と合計2時間程度かかる。もともと手はずを整えていたことではなるが、撮影後の濡れた格好のままではさすがに人目が気になって帰りずらいので、公園内のトイレで用意してきた服に着替えてから帰宅した。

 絵里子は、帰りのバスの中で、先ほどのシーンのことを思い出していた。
 あれほどまでに雨に濡れてびしょ濡れになったり、泥だらけになった経験は初めてであった。
 役柄のために使い捨てと割り切って安く購入した服とはいえ、新品の服をあんなにしてしまった事に罪悪感を抱いていた。
 しかし、その罪悪感を打ち消すかのように、絵里子はある記憶を鮮明に思い出した。それは、雨に打たれときに冷たくなった布地で体を拘束された感覚と、グラウンドのぬかるみにうつぶせになった時の泥の感触が昇華されたものであった・・・。
 絵里子は今、突如、得体の知れない非日常的世界への扉を開こうとしていた。 
~(2)へ続く~

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