絵里子は某農業大学4年生で来春卒業を迎える。就職活動の早期化に伴いすでにいくつかの就職希望先企業のOB/OG訪問や面接などを積極的におこなっていた。
就職活動もがんばらなくてはならないが、中学時代からずっと女子ソフトボール部の活動にも励んでいる。練習はもちろんイベントやミーティングなども欠席したことはなく、技術も持っているため、今までレギュラーの座を失ったことはない。そのプライドもあり大学進学後も部の活動は休んだことはなく、忙しい就職活動の合間でも秋季大会に向けてレギュラーポジション維持のために練習に参加していた。
今日は春から秋にかけて月に一度行われる部の恒例行事がある。農業大学ならではといえるが、大学が保有し実習授業などでも使うことのある休耕田でユニフォーム姿でストレッチなどの体力作りを行い、泥だらけになりついでに泥んこ遊びもしてしまうというちょっと変わったイベントであった。傍から見れば変わっているがソフトボール部員にとっては一般的なことである。
レギュラーの座を失いたくない絵里子は、今日も就職活動の面接帰りにそのまま休耕田に行き、恒例行事に参加する予定であった。部室のロッカーにユニフォームを置いてあるので問題はないと思っていた。しかし、面接帰りに部室に行きユニフォームに着替えようとすると、肝心のユニフォームがなかった。ライバルの誰かが卑劣にもどこかに隠したのか・・・。それもとも絵里子の勘違いで、ユニフォームは実は自宅に置き忘れているのか・・・。昨日は雨の中、練習したことをはっきり覚えていた。泥だらけになったから自宅に持って帰って洗濯し、予備のユニフォームを今日持参するつもりでいたのか・・・。自分でもどのように考えていたのか、ユニフォームがどこにあるのか分からなくなった。
時計を見ると恒例行事が始まる時間が近づいていた。欠席するわけにはいかないので、今着ているリクルートスーツのまま参加することにした。リクルートスーツの運命は当然分かっていたが、ライバルとの熾烈なポジション争いがある為、絵里子にとって選択の余地はなかった。
先ほどまで面接で着ていた黒のリクルートスーツ姿でリクルートバックを肩にかけ、ちょっと浮かない表情で休耕田の畦道を歩いている。リクルートスーツがこれからどのようなことになるのかを考えれば当然のことであった。ここまで来たら後には引けず、進むしかなかった。
まずは、休耕田の中に入って軽くランニングを始める。ストッキングはあっという間にふくらはぎ辺りまで泥だらけだ。また、泥ハネがタイトスカートにも付いている。
ランニングで足腰を休耕田の泥の状態にならしてから、田んぼ脇に上がってストレッチを行う。これがこのソフトボール部のセオリーで、絵里子が3年前に新入部員として入った時からまったく同じやり方である。すこし土が湿っている畦道ということもあり、腕立てや腹筋、背筋などをすると土がスカートやジャケットに付着し、所々、汚れが薄茶色っぽくなって目立った。
ここからがこの行事の醍醐味だ。休耕田での行事である以上、着ている衣服が泥だらけにならないはずがない。今、あぜ道の上でやった腕立てなどの運動を休耕田の中でやることになる。泥の中に身体が沈むと、地面の上のようにバランスを保つことができない。そのような状態でしっかり腕立てなどを実施することで体幹が養われるという名目でいつしか、このようなことが行われるようになったらしい。
しかし、実際のところ、上下関係が今とは比較にならないほど厳しかった昔の時代に、上級生が下級生に代々課してきた「しごき」みたいな悪しき伝統だったのだろう。それが、いつの間にか今のように泥んこイベントのような体裁をなしてきて、上級生も下級生も一緒になって泥だらけになりながら遊ぶ恒例行事へと変化して行われている。
気が付くと絵里子は一通りのストレッチをおこなった後で、黒のリクルートスーツは前も後ろもかなり泥が付着していた。絵里子は、ライバルにレギュラーの座を奪われたくないという、ただその1点でリクルートスーツのまま泥だらけになっている。
次に立ち上がると脚を大きく広げて、体勢を低くする守備姿勢の維持を試みる。相撲でいう四股のようなもので、ソフトボール部の内野手にとっては守備姿勢の基本となるのだ。タイトスカートのスリットが今にも破けそうになるが、なんとか破けずに持ちこたえている。縫合がしっかりしている証拠だ。絵里子が着ているリクルートスーツがそれなりに質の高いものであることを意味すると同時に、そんなリクルートスーツを泥だらけにしてしまっているというギャップが際立つ。
他の部員たちはリクルートスーツのまま泥だらけになる絵里子を横目で見ながら、普段練習で着ている上下白のユニフォームを泥だらけにしていた。元は上下白だったはずだが、そうはいっても年に何度か行われるこうした恒例行事や雨の中での練習で泥だらけになる機会は多いので、ユニフォームの色はくすんでクリーム色っぽくなっている者ばかりだ。中には薄茶色にそまった状態でここに来た部員もいる。
イベントも徐々に佳境にさしかかる。一旦泥だらけになったリクルートスーツは、おそらくは二度と着る事はできないだろうと絵里子は悟った。
ブラウスはもちろん純白色を回復させることは不可能なので言うまでもないが、スカートやジャケットも泥水を吸い込み、泥の粒子が生地に入り込んでしまうため自宅で丸洗いして乾かしてからだとしても、クリーニングに出せないことが推察できた。
絵里子はいっそのこと大胆に泥んこ遊びをしてしまおうと考え、ジャケットを脱いで動きやすい状態になって、泥を体中に塗り手繰り、さらには泥の上にうつ伏せになって匍匐前進を試みた。粘着性のある泥がタイトスカートやブラウスにこびりついていく。
先ほどまで面接で着ていたリクルートスーツがこんなひどい状態になってしまった自分の姿を嘆かわしく思う反面、その代償として、ライバルに付け入る余地を与えずに済んだという安堵から絵里子は微笑んだ。
泥だらけのリクルートスーツを泥水で洗い流すという経験はなかなかできないものだ。こびりついた泥を休耕田の上部にたまっている泥水で洗い流す。洗い流すとはいっても、汚れが落ちるわけではなく、付着した泥の塊を落とすだけだ。一通り泥を落とすと、畦道に上がり帰宅の準備を始める。
遠くに目をやると部室の脇の物干し竿が見えた。タオルがいくつも干されていたが、その傍らにユニフォーム一式が干されているのが目に入ってきた。
「(あっ・・・・!)」
今となっては絵里子は笑うことしかできなかった。今日の出来事は、青春時代の苦い思い出として一生の思い出となることは間違いないだろう。
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