カーテンを開けると陽光がまぶしかった。昨日、夕方から降っていた雨はすっかりやんでいて、いい天気の一日になりそうだ。庭には、妹の長靴が干されていた。すでに乾いてピカピカに光っている。
金曜日の朝だというのに、天気のよさとは裏腹に、憂鬱な気分であった。それもそのはず、就職活動で第一志望の会社からすでに内定をもらっていたが、昨日、ある農業関連企業からの内定通知を受け取ったからだ。
嬉しい悲鳴とはまさにこのことで、絵里子はすぐにでも内定辞退の連絡をしなくてはならない。気が重かったが、早速、絵里子は自分の最終面接を担当した人事部長宛に電話をかけた。通常ならまずは人事部宛であろうが、この会社はなぜか内定に関する返事は人事部長宛にという指示があった。
中略
「本当に申し訳ございません。本日、御社に参りますのでよろしくお願いいたします・・・。」
絵里子は、午前中の大学の授業を欠席してまで、内定辞退の申し入れをするために人事部長に会いにいくことにした。辞退の申し出と謝罪はできるだけ早い方が先方にとってもよいだろうとの判断だ。
来るようにと指定された住所をネットで調べてみると、面接で何度か行った時の会社の住所ではなく、会社からちょっと離れたところだった。絵里子は、その住所の地名になんとなく見覚えがあった。特徴的な名前のせいもあった。以前、地図か何かで見たような気がしたのだ。
最寄り駅からその場所までは歩きだと、なんと小一時間もかかりそうだった。バスかタクシーを利用しなくてはならなそうな辺鄙な場所だ。
午後からの授業には出たかったので、絵里子は、最寄駅からはタクシーを使うことにした。バスを使ったとしても、バス停からはかなり歩かなくてはならないからだ。田舎町の駅だからだろうか、タクシーが駅前に1台だけしか停車していなかった。運転手は雑誌を暇そうに読んでいた。
「あの・・・すみません。ここまでお願いします。」
運転手に住所を書いたメモを見せた。
「こんなとこ行っても何もないよ。あたり一面、田畑ばかりだけどいいの?」
「えっ・・・。そうなんですか?(何か変。・・・もしかして?!)」
住所に見覚えがあると思った理由がなんとなく分かってきた。じわじわと記憶が蘇ってくる。
「あの・・・すみません。そこで、構いませんので行ってください。」
絵里子がそう言うと、運転手は軽く頷き、ゆっくりとアクセルを踏んだ。しばらくの間、車内は静かだったが、運転手がその沈黙を切り裂いた。
「ここで、私ね、運転手を10年くらいやってるんだけど、そういえば、2、3年前かな・・・。今、向かうところに行ったな。あなたと同じようにスーツ着てた学生さんの女の子だったな。何でそんなところに行くのか分からなかったし、珍しい出来事だったから今でもよく覚えているよ。あなたも、学生さんかい?」
「あっ、はい・・・。」
「そうかい・・・じゃあ、帰りもタクシーかな? いや、営業してるわけじゃないよ。今、話した学生さんのことだけど、なぜか、帰りはスーツがびしょびしょで、所々泥で汚れててね。何しに行ったのか分からないけどさ、あなたも、もしかしたらそうなるのか・・・って思ってね。」
「・・・えっ?・・・。帰りもタクシー使わないと大学の授業に間に合わないので、頼みます!」
絵里子は、就職先と決め内定をもらったもう一つの会社の最終面接で着ていた時の黒の3ボタンリクルートスーツ姿だ。クリーニングしたてのスーツをジャケットの襟からタイトスカートの裾までゆっくりと目をやると、なぜか胸の鼓動が高鳴った。
「(私・・・何しに行くんだろう?内定辞退のお願いに行くだけなのに・・・このクリーニングしたての綺麗なリクルートスーツが・・・泥・だ・ら・け・に・?・・・。2、3年前の女の子もスーツ着てたんだ・・・それで、泥・だ・だ・ら・け・・・ってどういうことなんだろう。私、どうなるんだろう・・・・?)」
運転手と会話をしたことがきっかけで、不安と不思議な願望が内的に拮抗し、絵里子は頭の中が暴走し始めていた。そのせいもあり、意外に早く目的地に到着した。
「ありがとうございました。電話しますので帰りもよろしくお願いします!」
タクシーを降りてから数十メートルも歩くと、「見慣れた」場所に到着した。そう、数か月前にリクルートスーツ姿で泥だらけになってしまった、まさにあの田んぼ。懐かしい泥の匂いがあたりを漂っている。田んぼの脇の小屋の前には、泥だらけの長靴が無造作に置かれていた。
「青野絵里子さん、お待ちしていましたよ。」
人事部長だ。
「急なお願いにも関わらず、お時間いただきありがとうございます。内定辞退、本当に申し訳ございません。今日は・・・。」
絵里子は言葉をさえぎられた。
「前置きは抜きにして、単刀直入に言いますね。ここはうちの会社が所有する休耕田です。小石を拾ったり草むしりをしないと荒れ果ててしまうので手入れが大変なんですよ。そこで、今日は、青野さんに草むしりをしてもらおうと思います。ほかの会社からの内定があって、そちらに入社を考えているんでしょうから、もうリクルートスーツ着る機会はありませんよね?汚れるかもしれませんが構いませんね?」
「・・・いや、あの・・・(内定式とか、その後も着る予定なんだけどな・・・)はい・・・。」
「では、リクルートスーツを着たまま草むしりしてください。田んぼの全部の草とはいいません。30分くらい草むしりしてください。その頑張りの度合いで、内定辞退の申し出をどうするか考えたいと思います。」
「はい・・・、頑張ります。」
「その辺りがけっこう草が多いのでお願いします。」
「あっ、はい。」
絵里子は、パンプスを脱ぐと田んぼの中に足を踏み入れていった。30分もの間、草をひたすらむしるということをするにも関わらず、なぜか絵里子は嫌ではなかった。先ほどよりも鼓動が高鳴り、どっくん、どっくんと体を伝わってくるのが分かる。
最初のうちは汚れないように作業をしているが、草を勢いよく引っ張ったり、泥がたっぷり付いた長い根っこを運んでいるうちにスカートが泥で少しずつ汚れてきた。汚れることをそれほど気にしていないようにも思える行動に、人事部長は驚きのまなざしだ。
絵里子は、スーツのあちこちに泥が付着しているのに気が付くと、ふっきれたかのように、「もういいや」とつぶやき、田んぼの中にしゃがみこんだり四つん這いになりながら草むしりを始めた。スーツは泥だらけになるが、中腰で草むしりするよりも、体勢的にはるかに楽だっだ。
数か月前、ここで感じた何とも言えない衝動が蘇る。そして、内定辞退を認めてもらうために、クリーニングしたてのリクルートスーツをさらに大胆に汚していき、人事部長にアピールした。
午後から授業に出ようとしていたことなど今は忘れている。後先考えず、ひたすら泥だらけになっていく絵里子あった。
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