絵里子はクローゼットから黒のリクルートスーツ一式を取り出して、ドキドキしながらパジャマからリクルートスーツに着替え始めていた・・・・。
●3日前・自宅で
「やったー!!」
絵里子は思わず自宅の自分の部屋で声をあげてしまった。希望の就職先の不動産会社から内定の通知を電話で受けたのであった。
絵里子は立ち上がると、クロゼットの扉をあけた。すると、黒のリクルートスーツが2セットクローゼットの一番右側の取りやすいところにかかっているのが目に入った。上段にジャケットが2着、純白の開襟ブラウスが2枚、レギュラーカラーの白シャツが2枚、そして下段には黒のタイトスカートが2枚あった。タイトスカートのうち1枚は、まだクリーニングに出していないため深い座り皺が横に何本もできているのが目立った。
面接に行く際に電車で座ったり、時間調整中に喫茶店で勉強などをしたりする時に長らく座ることを何回か繰り返した成りの果てで、努力の証でもあった。
「(もうこのリクルートスーツ着なくていいんだわ・・・。)」
と絵里子はリクルートスーツをじっくり眺めながら心の中でつぶやいた。
昨年の冬から就職活動を始めていたが、持ち前のプラス思考を基盤とした積極行動に加えて才色兼備という武器を駆使して夏本番を前に早々と内定を勝ち取った。
今のご時世、就職活動の大半はリモートで実施されてきたが、春先からは対面での面接を実施する会社も増えていた。そうした会社の中に、事務所脇にプールが併設されていて社員とその家族や友達なら、いつでも自由に利用できるという不動産会社が存在した。また、その会社から内定を得た学生も社員同様の条件で入社前であっても利用できるというのであった。
なぜか絵里子はその特権の魅力にひかれ、その不動産会社が第一志望の会社となり、内定をもらうために努力し始めたのだった。他にもいくつかの企業の選考に参加したが、それはあくまでも「本命」から内定をもらうための練習という位置づけにすぎなかった。
そうした不遜ともいえる戦略ではあったがそれが功を奏し、見事に希望通り「プール付きの不動産会社」からの内定を手にしたのであった。
絵里子は早速、内定者にも適用される特権を利用した。内定をもらったらリクルートスーツのままプールに入って遊んでみたいと思っていたのであった。そのことを電話で内定先の会社の採用担当者に話した。
過去に内定者が入社前にプールを利用したことは何度もあるが、さすがに、リクルートスーツのままプールで遊びたいと申し出た者はいなかったようで、その突飛な申し出に一瞬沈黙があったものの快諾してくれた。
まだ夏本番というわけではないこともあり、プールの利用を希望する社員などはまだいないようで、今の時期ならいつでも好きな時にプールで遊べるとのことだった。絵里子は土日でも利用可能なのかを確認すると大丈夫とのことだったので、3日後の土曜日に行くことに決めた。
●当日
朝、パジャマからリクルートスーツに着替えると、バックの中に着替えの私服や替えの下着、バスタオルなど他にも色々とカバンの中に詰め込む。
姿見で自分のリクルートスーツ姿を眺めると、スーツ姿がピシッときまっていて美しいシルエットなので自分で照れてしまう。絵里子は自然と鼓動が高鳴るのを感じていた。
昼前に内定先の会社に到着すると、土曜出番の社員が数名出迎えてくれた。内定のお祝いの言葉をもらったり、世間話をしていると、その声を聞きつけた何人かの社員がどこからともなく現れた。
わざわざ仕事の合間に現れたことを考えると「見世物」の確認をしに来たのだろう。絵里子のことはこの小さな会社のことだからとっくに知れ渡っているらしかった。内定数日後にスーツのままプールに入りたいと懇願する女子学生たる者がどのような人間なのか、普通の感覚の持ち主であれば気になるのは当然のことであろう。
彼ら彼女らは、絵里子の容姿端麗で凛々しいリクルートスーツ姿と会話からすぐさま感じ取れる聡明さを察知すると、社員たちは皆ほっとして笑顔になった。たんなる「異端娘」ではないということが分かったからだ。
「我々社員は普段通り仕事していますが、気にせず思う存分プールで遊んでいってください。」
女性社員の1人が、絵里子をプールのある方へと案内し、更衣室やトイレなどの場所を丁寧に教え、いくつかの注意事項などを伝えると足早に事務所の方へと戻っていった。
1人になった絵里子はさっそくプール遊びをしようと意気込む。すでに「準備」はできている。そう、自宅から着てきたリクルートスーツのままプール入るのだから・・・。
内定が決まったらそのご褒美としてリクルートスーツを着たままプールでずぶ濡れになって遊ぶということを決めていた。いつ、なぜ、そんなご褒美を自分で決めたのかは今となっては思い出せないが、彼女の過去のいくつかの体験に起因しているのは間違いなかった。
中学時代や高校時代に部活動の帰り道、夕立に遭遇して制服のままずぶ濡れになってしまったことがあった。また、大学に入ってからは所属するソフトボール部では、対外試合で移動する時など課外活動の際はスーツ着用が義務付けられているのだが、移動中にやはり何度かゲリラ豪雨にあってスーツのままずぶ濡れになってしまったことがあった。
普通なら嫌な経験のはずだか、絵里子にとってはなぜかそれが楽しく、気持ち良いと感じていた。そしていつしか、服のまま濡れることが好きになっていた。大学に入ってから・・・大学の授業やバイト帰りに雨が降っても傘を差さずに帰宅することがしばしばあった。マキシスカートなどを穿いていた時は、スカートの生地面積が大きい故に濡れるとずっしり重たくなることも体感していた。その時のスカートが脚にまとわりつく重たい感覚も絵里子にとっては無条件で好きだった。
ただ、絵里子にとって残念なことがあった。それは、リクルートスーツを着用した就職活動中も帰り道に雨に降られることを期待していたのであるが、雨に遭遇することはなかったということだった。・・・ということもあり、内定が決まったら思いっきりリクルートスーツのままプール遊びをしてずぶ濡れになりたいという潜在意識が顕在化してきたのだろう。そして、ひょんなことからこの不動産会社の存在に気付き、今日に至っているということなのだろうか・・・。
「(念願だったリクルートスーツ着たままのプール遊び・・・やっちゃうぞ!)」
絵里子は内定を決めた時の黒の2ボタンリクルートスーツに身を包んでいる。このスーツはクリーニングしたものなので皺がまったくない。今朝、クロゼットからリクルートスーツを取り出したときに感じた鼓動が再び蘇る。いや、今朝よりもいっそう強く胸が高鳴っている。
ゆっくりとプールの中に足を踏み入れる。プールの入り口近辺は階段になっているので一気に深くはならず徐々に水深が増していく。上段に立つとふくらはぎくらいまで水に浸かった。そしてもう一段深い所に移動するとタイトスカートの裾が濡れそうになった。条件反射的にスカートが濡れないように両手でたくしあげるが、すぐに手を放した。
ここまできたら後戻りできないと思った。・・・いや、自分の心の奥底から沸きあがってくる願望に素直になりたいだけだった。さらに一段階段を降りると一気に腰位まで水の中に浸かってしまった。
「きゃっ!冷たい!」
と、ふと声を漏らしてしまう。日差しが強く気温が高い日とはいえ、温水プールではないので水温は冷たかった。しかし、それが逆に気持ち良かった。今朝、自宅で着替えた時のリクルートスーツの生地の感触、ドライクリーニング後の独特の臭い、ブラウスに袖を通し肌と触れ合った時のスベスベした感覚などを思い出した。
・・・さっきまで皺ひとつなく綺麗だったリクルートスーツを着たまま今はプールの中にいることが信じられなかった。
これから起きる事(自分自身で実行する行動なのだが)を想像すると心臓が止まりそうになった。リクルートスーツがさらに濡れていき全身隈なくずぶ濡れになっていくにつれて、心の鎖がほどけ始めた。ここは誰の目も気にすることなく自由に遊ぶことができる楽園であった。
しばらく水に浸かっているとジャケットが水を貯えてきたせいか重たく感じたので、ジャケットのボタンをはずしてみた。すると体がちょっとだけ軽くなった気がした。さらに、ジャケットも脱いでブラウス姿になってみるとさらに動きやすくなり、気分もより開放的になってきた・・・。
「(これからがプール遊び本番よ!)」
と心の中でつぶやくと平泳ぎを始めた。今まで絵里子を縛ってきた就活リクルートスーツのジャケットはプカプカ浮かびながらしばらく同伴するように漂っていたが、すぐさま絵里子の視界から消え、水底へ沈んだ。そして、絵里子が泳いでいる前方の水面は、日の光で煌めき綺麗な虹が見えていた。絵里子は悠久の至福ともいえる時を過ごしていた。(完)
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