田園風景、土の匂い、虫たちの合唱など、視覚や嗅覚、聴覚を刺激した。
絵里子は、幼稚園のときから小学校高学年の頃まで近所の友達と田んぼで泥んこ遊びをしてスカートやシャツを泥だらけにして何度も親に叱られた経験がある。泥んこ遊びをすると不思議と心が安らいだのであった。友達と泥の掛け合いなどもした。
絵里子は今は二十歳を過ぎ就職活動や大学の授業、アルバイトなどで忙しい毎日を送っている。それでも、絵里子は誰かに泥んこ遊びをしようと誘われたら喜んで行くだろう。
しかし、大人となった今、誰もそのような遊びに誘ってくることはしないし、絵里子が誘っても参加してくれる人はいないだろう。「かくれんぼう」や「缶蹴り」などをして遊ぼうと誘っても参加してくれないのと同じだろう。
いや、そんなことはない、きっかけさえあれば「大人」だって遊びやゲームに参加したいのだ。現にガタリンピックやマッドランで泥だらけになるイベントもあるし、サバイバルゲームといった手の込んだちょっとだけ危険な「大人」の遊びもある・・・と絵里子は思った。
続けて絵里子は考えた・・・なんで、大人になると昔したような遊びをしなくなるのだろう・・・。子供じみていて人にみられたら恥ずかしいし、単純で原始的な遊びにはカードゲームのような知的さを感じない、そしてなんといっても、日々の仕事やら何やらで忙しく時間的に遊ぶ暇がないからだろう・・・。さらには、昔よく遊んだ友達たちもそれぞれ今となっては遠くに行ってしまっているので、昔一緒に遊んだ仲間の共同体自体が喪失していて、そう簡単に一堂に会することができないからだろう。もちろん、時間的、物理的問題が解決されたとしても、「恥ずかしい」「単純すぎる」といった理由で地方に住む友人がわざわざ飛行機や電車を使って何時間もかけて「かくれんぼう」や「泥んこ遊び」をしに来るとは考えにくい・・・。
しかし、「ガタリンピック」や「アスレチック」や「テーマパーク」といった何か「仕掛け」があれば話は別なのである。
絵里子は、小さい時に友達たちと遊んだように、何も考えずにただ泥だらけになっていく「泥んこ遊び」をしたいという感情が湧き上がってきた。
難しいことは考えずに嫌なことは一旦脇に置き、楽しい時間を過ごすことができるだろうと思った。
昔・・・少女時代、服を泥だらけにして後で母親に叱られるのは分かっていたのだが、だからこそ「あの瞬間」の楽しさを満喫できたのであった。
「あの瞬間」の前後の出来事は「あの瞬間」を経験しなかったとしたら、きっと嫌でストレスをもっと抱え込むことになっていただろうと思い返した。絵里子にとって、あの時に友達たちと泥んこ遊びしたことはストレス解消、癒しの体験であったのだ。
あたり一帯に田園風景が広がっている。目の前には懐かしの田んぼがある。泥んこ遊びをしていた当時は田植えも行われていたので代掻きをおこなうまでしか遊べなかった。しかし、数年前からこの田んぼでは稲作はしなくなり、休耕田として一般に開放されているのでいつでも遊べるようになっていた。
絵里子は濃紺のリクルートスーツ姿であった。就職活動真っ只中であったが、このスーツはだいぶ着込んだため、最近新しいリクルートスーツを買ったのであった。だから、この濃紺リクルートスーツはもう着ないつもりでいる。
なにかすがすがしい気分であった。童心に戻って、これから一人泥んこ遊びをする前の心境・・・それもリクルートスーツのまま・・・畦道を歩きながら少女時代の懐かしい記憶がまざまざと蘇ってきた。
田んぼの中に足を踏み入れて懐かしい泥の感触を足裏で感じる。そして、田んぼの中でしゃがみ込んで泥をすくっては身体やスーツに泥を塗り手繰っていく。
「あの時」と同じように仰向けになって青空を眺めながら泥の感触を身体全体で感じてみた。あの青空に広がる無限の世界に想いを馳せると、自分が抱え込んでいる問題などちっぽけなものだと感じた・・・。
絵里子は全てを忘れて少女時代の「あの時」の世界にいる。そして、もう二度と着る事は無いであろうリクルートスーツ姿で泥と戯れるのであった。
(作・ジュテーム家康)
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