教育実習生(最終回)・・・最後の教育実習
絵里子はいつものように陽光で気持ちよく目を覚ました。だが、今日はいつもと違って、ちょっと寂しい気分であった。なぜならば、教育実習生活も今日が最終日であり慣れ親しんだ生徒達や学校ともお別れだからだ。この教育実習期間中に顕在化し気付かされた密かな楽しみでありストレス解消にもなっていたフェチな遊び・・・それに、妹との「秘密」の遊びとも上京し大学に戻るとできなくなるだろう。
今日は実習生と生徒・先生方とのお別れの日ということで、授業は半日しか組まれておらず、送別会イベントがメインとなっている。いつものように、絵里子はグレーのスーツに着替えた。最後の日ということで、親からもらったスーツが無事のまま帰宅する自信は、今の絵里子には無かった。
この実習期間中だけでも2回ほど泥だらけになってクリーニングに出している。1度目は、おろしたばかりの教育実習初日、2度目は、数日前に妹との秘密の遊びをしたときだ。このスーツは、おろし立ての頃の生地の張りはなく、なんとなく染みがスーツ全体についているような気もしていた。親から買ってもらったスーツで大切に着ていきたいとは思うが、この先長くは着ていく事はできないだろうと感じている。
学校には黒のスーツと濃紺のリクルートスーツを置いてある。当然、今日で最後なので全て持ち帰ってくる事になる。いつもは更衣室で黒のスーツに着替えるのだが、うっかり着替えずにグレーのスーツのままでいた。今日が最終日ということが頭から離れず寂しさで、感傷的な気持ちに浸っていた。
最後の実習授業を終え、生徒達から「絵里子先生、ありがとうございました!」と声をかけられると胸に熱いものを感じ目が潤んできた。心の中で、「(みんなと過ごすのもあと半日。悔いの無いように残りの時間を密度の濃いものにしたい。)」と感じた。
昼食後は授業はなく送別会である。絵里子以外の実習生数名もスーツ姿で全校生徒の前に座っている。生徒達の歌や短い演劇などの色々な出し物を楽しく見物した。心温まるプレゼントをもらい絵里子はまた涙を流した。担当クラスの記念集合撮影を撮ったり、女子も男子も問わず生徒からツーショット写真の撮影をせがまれ、その全てに快く応じた。
送別会イベントも終わり、クラスに戻るといよいよ本当にお別れとなった。担任の教師、生徒達も一人一人お別れの言葉を述べていった。その中に、彩香という女生徒がいた。いつだか雨の時に絵里子が傘を差しだした生徒だ。
「絵里子先生、あの時は傘を貸してくれてありがとうございました。これ、あの時借りた傘です。今まで返すの忘れていてすみませんでした・・・。」 傘と一緒に可愛らしい薄黄色の封筒が一緒に添えられていた。
お別れの言葉を生徒達が述べ終わると、最後に絵里子が挨拶をした。抜き打ちの防災訓練に始まった教育実習生としての生活は、短い期間であったが密度の濃い時間を生徒達と過ごすことができた。着衣水泳教室のことや放課後に女子ソフトボール部の部員達の指導を、顧問教師の下でおこなったことも良い思い出となった。高校時代以来、久しぶりのソフトボールを生徒達と楽しんだ。そういった事を思い出しながら生徒達の前で話していると、また胸が熱くなった。
絵里子が最後の挨拶を終えると、厳しくめったに褒めてくれたことのない担任の教諭からお褒めの言葉をもらった。
めったに人を褒めない人間からの承認は、自分を贔屓目に好意的に評価してくれる人間の賞賛よりもはるかに価値があるように思えた。そして、日直の号令により形式的には全てが終わった。
絵里子は、職員室で忘れ物が無いように確認し帰り支度をすると、先ほど彩香という女子生徒から手渡された封筒の中身を見た。女の子らしい可愛い文字で次のような文章が書かれていた。
---今日で絵里子先生とお別れするのは寂しいです。部活の面倒もみていただきありがとうございました。最後に私たちソフトボール部のメンバーと一緒に少しだけプレーして下さい。---
絵里子は荷物をまとめるとそれらを一つの大きなバックの中に詰めた。そして、女子ソフトボール部が練習を行っている裏のグラウンドに行くと風が強く吹いていた。砂埃が舞って大変だったのだろう、案の定、スプリンクラーを作動させてグラウンドには水がまかれていた。
スプリンクラーの水の出口近辺にはどうしても水たまりができてしまう。ホームベースとファーストベース周辺には水たまりが出来ていて赤土がぬかるんでいた。部長がスプリンクラーを止めると練習開始の合図をした。風は相変わらず強く吹いているが、砂埃が舞うこと無く、落ち着いて練習に打ち込める環境になったようだ。
今日は顧問の先生が不在で、3年生の部長が主導的に練習の指示を与えているようだ。しばらく、見納めとなるソフトボール部の練習風景を感慨深く眺めていたが、2チームに別れて紅白戦をやるときになると、部員達みんなに催促されて一方のチームに加わることになった。当然、ユニフォームなど持っていないのでグレーのスーツ姿でやることになった。
絵里子としては、ぬかるみのできたグラウンドでプレーができる事となって願ったりの状況となったが、心の中では「あの場所」で一人心ゆくままに泥んこ遊びをしおうと思っていた。
ここで、生徒達の前では泥だらけになったスーツ姿をさらけだしたくはないとも感じていた。プレー中は、転んだり、泥はハネが飛ばないように気を付けて守備や打席にたっていた。そのようにして、プレーに集中できていない絵里子の様子を生徒たちは当然気付いていた。しかし、スーツを汚してはいけない絵里子の立場を理解しており心配そうに眺めていた。
回は押し迫り、9回裏2アウト2塁で絵里子の打順が回ってきた。今1点差で、絵里子が属す白組が負けている。2累ランナーと絵里子自身がホームベースを踏めばサヨナラ勝ちだ。
遊びとはいえ、勝ちに拘りたい。そういった姿勢も部員達への置き土産として残していかねばならないと絵里子は感じていた。だから、自分が最後のバッターとなるわけにはいかない。相手チームのピッチャーの初球を見事に捉えた。風が強いせいもあり打球は意外にのび、センターオーバーだ。2塁ランナーは悠々ホームに帰り同点。絵里子はボールを捉えた瞬間、「高校時代モード」へとスイッチが入れ替わった。自分がスーツ姿であること・・・ホームベースから1塁ベースまでの間が、先ほどのスプリンクラーでぬかるみとなっていることは、もはや頭から消えていた。
もしかしたら、ランニングホームランになるかもしれないという直感から、全力で走っていた。
2塁をベースへとさしかかる時もまだセンターはボールを後追いしていてまもなく追いつこうかという状況であった。「(微妙・・・!)」と絵里子は心の中で思った。そして、走りながら、デジャブのような感覚に陥った。
高校時代、ソフトボール部で鍛え県大会準決勝戦までいった経験のある絵里子だった。自分がホームを踏めば逆転でサヨナラになるという経験をしていたことがフラッシュバックされた。
・・・あの時は、雨の中の試合だった。ぬかるんだホームにヘッドスライディングをし、きわどい判定だったが、無情にも判定はアウト。そして、その一件でチームは落胆し延長戦になってすぐに相手に大量失点を許し、その裏に追いつくことができず結果的に惨敗してしまったという記憶が甦ってきた。母親に洗濯してもらったばかりの真っ白なユニフォームを着て試合に臨んだのだが、ユニフォームを泥だらけにして惨めな思いだった。
今も状況は似ていた。2アウトで自分がホームを踏みセーフであればサヨナラ勝ちという状況。今、絵里子は久しぶりの全力疾走でダイヤモンドを駆け抜けている。3塁へ向かう途中、横目でセンター方向を見た。何の根拠もなく勘であるが、間に合いそうだ!・・・と感じていた。
グレーのスーツ姿でぬかるんだグラウンドを走る絵里子の姿に敵味方どちらのチームのメンバーも釘付けだ。3塁ベースをまわり徐々にホームが近づいてくる。ホームベースを普通に走り抜けるだけで悠々逆転できそうに感じていた。
しかし、3塁ベースをまわり3分の1くらい走り終えた頃、左目でかすかに白球が見えたので絵里子は焦った。「あっ!」センターは強肩の持ち主らしかった。ぐんぐんとボールがホームに伸びてくるのを感じた。
絵里子とボールとどちらが先か・・・。絵里子の眼前には泥でぐちゃぐちゃとなったバッターボックスやホームベースが迫っていた。
中学・高校と6年間慣らした体だ。体にしみついたものは体がそう簡単には忘れない。気がつくと、条件反射行動の成りの果て・・・の状態にあった。
目の前に泥だらけのホームプレートとそこに伸びた自分の両手があった。下に目をやると粘着質の赤土のぬかるみだった。そして、スーツ越しに体全体に柔らかく生温かいものを感じた。少しの間、さっきまでの活気がなくなり静けさが周囲を包んだ。
まもなく、白組みのメンバーが近寄ってきたが、みんな笑顔の中にも哀れみの表情も入り交じっているようだ。向こうからも紅白戦には参加せずグラウンドの脇で見学していた彩香も近づいてきた。ピッチャーである彩香は右肘に違和感があったため今日は大事をとって部活の練習は見学していたのだった。
「ごめんなさい、絵里子先生・・・。私が誘ったばかりにこんなことになってしまって・・・」
「彩香ちゃんのせいじゃないわよ。気にしないで。」と言い終わらないうちに、紺の襟に白の3本線の入った長袖のセーラー中間服に紺のミニプリーツスカートという制服姿の彩香は、何を思ったのか3塁ベースまで走って行った。スカートをひらひら揺らしながら走っていく後ろ姿が可愛い。
「先生!見て!みんなも見て!」と言うなり、ホームに向かって全力で走り始めた。そして、なんとヘッドスライディングをした。みんな、唖然として彩香の方を眺めている。彩香はなぜか満面の笑みで満足げである。
「絵里子先生、私も先生と同じ!泥だらけになっちゃいました。(笑)」
「彩香ちゃん、なんでそんな事したの?」
「私のせいで先生のスーツ泥だらけにしてしまったから、その罪滅ぼしにと思ったんです。それに、一度卒業前にセーラー服で泥んこの中でヘッドスライディングしたいなって思っていたんです。中学時代の思い出にと・・・。でも、先生が今日、偶然こんなになってしまって、先生の泥だらけのスーツ姿を見ていて、なぜか分かりませんが・・・勝手に体が動き出してしまって・・・。」
と言う彩香は泥だらけになった自分のセーラー服を見て、この後どうすれば良いのかと考えているらしく、困惑の表情を見せていた。しかし、絵里子は、彩香の目が喜びに満ちている事を見逃さなかった。
さらに、彩香がセーラー服で泥だらけになった自分の状況に対し、実は快感を味わっているという事を、絵里子は、嗅覚的に察知した。
絵里子は彩香という生徒の言動に自分と同じ「におい」を感じたのだ。
今日でみんなとはお別れだが、この彩香とは、いつの日か「フェチ」という名の運命の糸に引き寄せられて、偶然どこかで再会することになろう事を直感していた。 (完)









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