人間ムツゴロウの練習…ストーリー公開
思い返せば、あの日がすべての始まりであった・・・。
絵里子は、リクルートスーツ姿のまま卒業論文の研究材料として使う昆虫を求めてこの休耕田で泥だらけになった。
今日もまた、何かに強く導かれ、自分の心の奥底から湧き上がる感情を抑えきれずにここにいる。なんと、今日のためにネット通販で新調したチャコールグレーのリクルートスーツを着て、絵里子は例の休耕田の前に立っている・・・。
この前、同期の男性社員と一緒にここに来てお客さんの鍵を探しに来た際に、会社の制服のまま泥だらけになった。あれから1ヶ月以上が経つ。色々と驚くことが次から次へと起こっていた。
なんと、この前ここに一緒に来た同期の男性社員は、あの役員さんのご子息とのことが先輩女子社員から聞かされたのであった。さらには、ある日、その役員さんの部屋に部長の手伝いのために同行して入った際に、なぜか役員さんの机の上に、お客さんのものとされていた「あの鍵」があったのだ。鍵についていたキーホルダーが「クスの花」をかたどったもので特徴的だったので絵里子ははっきりと覚えていたのであった。
さらに驚くことに、数日前、今年の「ガタリンピック」に社内の有志たちで参加しようということになったのだが、なんと毎年恒例になっているらしいのだ。しかも、男性も女性も出場する際はスーツ姿でという一風変わった習慣があるらしい。それにも関わらず、出場する女性社員が毎年何人もいるというのだ。そしてこれを企画しているのがあの役員さんということだから驚きだ。休耕田に関しても、「ガタリンピック」に出場する希望者たちがいつでも自由に泥だらけになって練習できるようにと、あの役員さんの強い意向があって会社名義で何年もの間、所有しているとのことである。色々なことがフラッシュバックし、徐々に点と点がつながってきた。
目の前には泥をたっぷり蓄えた休耕田が絵里子を待っている。
チャコールグレーのリクルートスーツ姿の絵里子は一人で立っている。スーツ姿で泥だらけになることに喜びをとおり越して快感を感じる域にまで至っている絵里子が、「ガタリンピック」出場のため、練習用に購入したリクルートスーツなのだ。今日を皮切りに今後何度もここで泥だらけになって最終的には泥汚れのシミが幾重にも重なって色濃くなり、生地がヨレヨレになっていく運命にあるスーツ姿の自分を今一度眺める。当然のことながらスカートもジャケットも皺もなく綺麗な状態である。
いざ、足を田んぼの中に踏み入れようとすると、ある出来事を思い出した。内定式後の出来事の記憶だ。絵里子は大学時代に培った知識を基盤にしながら点と点を線でつなぎ合わせた。
「(クスの花・・・といえば、内定式後に会社の廊下で役員さんと会った時、役員さんの後ろポケットから無造作に出ていたハンカチにあしらわれていたよね・・・クスの花って、佐賀県の県花じゃない! 間違いないわ。県木のクスノキの花が県花になっていることをどこかで見たから。あっ、なによ、あの役員さんって、佐賀県出身じゃない!息子が佐賀県出身って言っていたから。なによなによ。これって、あの役員さんが敷いたレールだったんだわ!)」
絵里子は自分が『トゥルーマン・ショー』という映画の主人公になったような気分だった。
絵里子は今日のために用意した新品のリクルートスーツのまま、いよいよ田んぼの中に入っていく。泥の感触を確かめながら・・・。
さすがに、初めのうちは新品のスーツをいきなり汚していくことには抵抗があった。数分後には泥だらけになっていることは自分でも分かっていたが、いっきに泥で汚していくことはためらった。少しずつ・・・と思って膝を田んぼにつけてみる。するとスカートの裾がぬるぬるした泥の上に広がり、少しずつ泥が付着していく。それを見た絵里子は、ふと力が抜け夢の中に誘われる感覚に陥っていった。
絵里子は「ガタリンピック」の競技の中で一番出たいと思っている「人間ムツゴロウ」の練習をしようと決めている。本番では、黒のリクルートスーツを着るつもりである。
それは、就職活動の際に購入したものの、今の会社への内定が思いのほか早く決まったために1回しか着る機会がなくほとんど新品に近い状態でクローゼットに眠っているものだ。今着ているのはあくまでも泥の中をうつ伏せで動く感覚を体得するためだけに購入した練習用のスーツだ。クローゼットの中のリクルートスーツというのは既製品ではなく、某量販店でしっかり体の寸法を測って仕立てたオーダーメイドスーツだ。生地の手触りも良く、絵里子も気に入っていた。難点といえば、毛100パーセントで薄手なので、ちょっと座っただけでもスカートに座りじわができてしまうことだ。現に、1回着た時に、電車で数分移動する際に座席に座っただけでもバックスリットに折り目が入り、お尻の部分に何本も横にしわが入ってしまったのであった。もちろん、今はその皺もクリーニングに出して綺麗に整えられている。
絵里子は、お気に入りのそのリクルートスーツ姿の自分を「姿見」で確認した時のことを鮮明に覚えていた。自分の心の中で思うだけでも恥ずかしくなってしまうくらい「美しいシルエット」だった。そんなリクルートスーツを皺にしたり汚したりすることはとてもできないと思わせる優美さを自分自身で感じてしまうほどであったのだ。しかし、本番では、そのリクルートスーツを着て泥だらけになると決めている。そのリクルートスーツを着ていることをイメージして「人間ムツゴロウ」の練習に取り組もうとする。新品のスーツを着ているのだから、まさに本番の疑似体験をするにはうってつけだ。絵里子は鼓動が高まるのを感じながら徐々に泥の中に身体をあづけていった。
しばらく記憶が無くなっていた。絵里子が我に返った時、リクルートスーツは前も後ろも泥でべっとり覆われていた・・・。(完)
【一連のストーリー・バックナンバー】
①泥まみれの卒業研究
②就活の合間に泥んこ遊び
③泥田で体力作り
④泥だらけの探索
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