着衣水泳指導に向けて
梅雨入りの時期が近づく季節になった。毎年この時期になると全国各地の学校では、教育実習が始まる。絵里子が教師として勤務している高校でも、何名かの教育実習生を迎え入れることになる。
絵里子はこの学校の中でもベテランの域になり、今年から教育実習生や新人教師の女性の指導を任せられることとなった。
この高校では、珍しく着衣水泳の実習が独自に設けられている。近年、全国的にゲリラ豪雨などが発生し、都市部であれ田舎であれ、いつどこで洪水などの予期せぬ水災害が起きるかわからなくなってきている。通勤・通学時や帰宅時を想定し、通勤・通学時や帰宅時の服装のまま水災害から身を守る訓練をすること重要性が高まりつつある。
さらには、絵里子の勤務する学校周辺には土地柄、ため池や貯水槽が点在していた。そのため、不注意などでそうしたところに落ちた場合を想定しての訓練が学校の室内プールで定期的に実施されている。
もちろん、絵里子は過去に何度も訓練を受けてきたが、実習生を指導するのは今回が初めてである。
自分が着衣水泳を行うのと、指導するのとでは勝手が違う。うまく学生たちを指導できるかが心配な絵里子は、放課後に一人で指導の練習をすることにした。
教育実習生はリクルートスーツ着用が義務付けられている。通勤や帰宅時を想定しての訓練のため、実習生たちはリクルートスーツのまま着衣水泳の実習に参加することになっている。
絵里子は教師という職業柄、多くのスーツを保有しているが、学生たちの大半は2着程度しかスーツを持っていないのが普通だ。スーツのままずぶ濡れになることは、事前に実習内容が明らかにされるとはいえ学生たちにとってはかなり衝撃的な経験となるはずだ。
絵里子は、そんな学生たちの心に少しでも寄り添うために、日頃から通勤や授業の時に着ているスーツ姿で着衣水泳の指導を行うことに決めていた。
今、絵里子は朝自宅から着てきた黒のスーツに身を包んでプールサイドを歩いている。いきなりドボンと入るわけにはいかない、先ほど軽く体を動かしているので、準備体操はとばし、まずはシャワーをゆっくり浴びていくことにした。
髪の毛から徐々に水がかかっていき、ジャケットを滴りスカートまで水が到達した。ずぶ濡れというほどではないが、雨の中、傘もささずにしばらく街を歩いているときのような状態だ。
その後、プールの縁に座りバタ足をして体を動かし温めていき、水の中に入る準備を整える。
そして、いよいよ、スーツのままプールの中に入った。
温水プールで水は温かく気持ちよいと思ったが、スーツのまま水の中に入るというのは、やはり変な感覚だった。
しかし、リクルートスーツのままプールの中に入る教育実習生のために、一生懸命に指導の練習をしないといけないという使命感で絵里子はいっぱいだった。指導要領にそって指導手順を確認していた。
プール内の歩行をしばらくおこなうと、今度は、平泳ぎである。万一、着衣のまま池などに落ちた場合、一番泳ぎやすい泳法は平泳ぎとされている。ただ、スーツのジャケットを着こんだまま水の中に落ちた場合、かなり泳ぎにくくなる。この泳ぎにくさを身をもって経験することが、この着衣水泳指導の肝である。
その後、プールの浅瀬に移動して水の中で色々なポーズでストレッチをしてスーツを着たままでどのくらい自由に体が動くのかをチェックした。
また、立ち上がったり、全身水に浸かったりして、水を含んだ状態で陸上にいる感覚と、水の中にいる感覚とを比較もした。これも、着衣水泳指導を行う上では重要な体験である。
実習生にもこのことをしっかりと体験させる必要がある。絵里子は何度も繰り返し、その感覚を自分の言葉で実習生たちに伝えられるように努めた。
次はクロールの練習だ。これは、無理をせず泳ぎが得意な者だけを対象とするように注意書きがあった。絵里子は自分では泳ぎは得意なほうだと自負があったので、スーツのままクロールで泳ぐのがどのような感覚なのかを確かめた。
平泳ぎよりも困難で、さすがの絵里子も自由に泳ぐことができなかった。この経験も指導の際にフィードバックされる。これで、一通り着衣水泳指導の流れをこなした。
最後は、着衣水泳指導とは関係ないが、プール脇にある大浴場でくつろぐことにした。すぐに体がポカポカしてきて気持ちよくなった。
浴槽の中で体を浮かせてみるとそのまま寝てしまいそうになった。着衣水泳の疲れはとれリラックスできたが、実習生への指導に関して一抹の不安を抱きながらプールを後にする絵里子であった。
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