「(なんでこんなことしなくちゃいけないのよ・・・。)」
絵里子は新入社員として第一志望の農業関連企業に就職したものの、新人研修で日々の勤務を過ごしていた。
入社して1、2カ月経ったある日、新人研修を担当している上司から会社が現在所有している休耕田に行ってお客さんの落とし物を探してきてほしいと頼まれた。
実は、そのお客さんのことを絵里子は知っていた。休耕田の状態が良ければ購入したいという人で、数日前に上司と絵里子は、そのお客さんに「あの休耕田」を見せに行ったのであった。お客さんは裸足で田んぼの中に入り、畦道の近辺だけであったが歩き回って、泥の感触を試したり、砂利がほとんど無くきめの細かい泥質であることを確認しながら休耕田の状態に満足していたのであった。
そのお客さんから今日になって休耕田に自宅の物置の鍵を落としてしまったらしいから、探してほしいと連絡があったようなのだ。広い休耕田といえども畦道のからそれほど離れていないところしか足を踏み入れていないからすぐに見つかるであろうとのことだった。
こういった雑用は社内の若い者の役回りとなることがしばしばだ。とはいえ、新人で、しかも女性にこのような雑用が回ってくることは通常では考えられない。しかし、何事も「通常」通りで物事が動いているわけではないのがこの世の常でもある。
最終面接の時に絵里子の面接官であった「メガネ」が絵里子の直属の上司であり、日々の新人研修も担当していた。
「青野さん、あなたにこの仕事をお願いしたいと思います。最終面接でも泥の中に入るのを厭わず、我々の想像以上にリクルートスーツを泥だらけにした青野さんですから、まさに適任ですね。これも新人研修の一環として考えてください。」
絵里子にとっては初めて単独で任される仕事でもあり、新入社員として認められたような気分にもなり嬉しかった。
「???・・・あっ、はい。」
「今日はその恰好ですから泥で汚れてもいいように、いずれ支給予定の制服を青野さんには前倒しで・・・いや、それも汚してはいけないので、農業用の作業着に着替えて行ってください。」
絵里子は上下白のスーツ姿だったので、上司の「メガネ」が絵里子に対して最終面接の時のようにスーツが泥だらけにならないようにとの配慮らしかった。しかし、絵里子はさすがに鍵を探すくらいのレベルで泥だらけになることなどありえないから、着替えなど大袈裟だと考えた。
「あの時のお客さんが無くしたとかいう鍵を探すだけですよね?畔からそれほど離れていないあの地点はそれほど泥も深くなかったはずです。だから、着替えなくても大丈夫です。すぐに見つかると思いますし。」
絵里子もさすがに今日は泥んこ遊びをするわけにはいかないので本気でそう思い「メガネ」に対して返事した。
絵里子のこの返事は顕在意識が発しているにすぎず、また「メガネ」も絵里子の行動を読み切ったうえでの発言であった・・・。
会社の軽自動車で、まだ午後の早い時間に絵里子は1人で休耕田にやってきた。田舎なので人通りや車の往来もほとんどない。やっつけ仕事ともいえるこの雑用を早く終わらせて会社に戻りたいと思っていた。
真っ白のスーツに泥ハネが飛ばないように細心の注意を払いながら畦道から休耕田の中に足を踏み入れ、お客さんが無くしたという鍵を探し始めた。
スーツのスカートはAラインの膝丈なのでタイトスカートとは異なり足の自由がきく、ジャケットの袖もやや短めなので田んぼの中に手をある程度深くまで入れても汚れることはなかった。泥ハネに注意していればスーツは全く汚れることはなさそうで安心していた。
しかし、中腰での作業を続け、スーツが汚れないようにかばった体勢を続けていたことが原因で、普段使っていない筋肉が限界に達し悲鳴を上げた。足がつってしまったのだ。つった時の痛さは本人でないと分からないものである。一流スポーツ選手でさえその場で立っていることは困難だ。
絵里子は自分が白のスカートスーツ姿で休耕田の中にいることは十分理解しているが、体が言う事を聞いてくれない。足の筋肉がおかしくなりはじめ、その場にしりもちを付くほか何もできなかった。
「(・・・・!)」
白のスーツ姿のまま泥の上に座り込んでいる自分の姿に一瞬頭が真っ白になったものの、そのことを足の痛みが忘れさせた。パンプスを脱ぐとつま先が変形していることが分かった。足がつったせいである。両足を泥の上に伸ばして手でつま先を引っ張る。そして足を曲げるためにその場でうつ伏せになって足を何度も動かしたりして泥の中でストレッチをする。
徐々に足の痛みがやわらいでいくにつれて、意識が自分の泥だらけのスーツへと戻っていく。
「えっ!・・・やばっ!」
思わず声を上げてしまう。
同時に、絵里子の心の奥底からある感情が芽生える。沙也加とここに遊びに来た昨年の夏頃、沙也加のいたずらで私服を泥だらけにされたという出来事をきっかけに「目覚めて」しまった泥んこ遊びが・・・気持ち良くて楽しかったという感覚・・・が再びどこからともなく湧き上がってきた瞬間であった。
絵里子はここまで汚れたのであれば、もっと汚しても同じ事だと思い、ふっきれた気分でおもいっきり泥だらけになりたいと感じた。もう誰にもこの衝動を止められない。
今いる位置から匍匐前進で畦道まで戻る。そして再び、田んぼの中に入って泥の上で転げまわるようにしながら進んだ。白いスーツの白い部分がなくなるまで真っ黒にすることが今の絵里子の関心事であった。「あの時」のように、田んぼの中で1人はしゃぎながら泥んこ遊びに興じる。白いスーツの面影は無くなり、あたかも黒のリクルートスーツを着ていたかのような汚れぶりであった。
絵里子がふと田んぼから100メートルくらい離れた看板の方に目をやると、大木の陰に一台の車が停まっていた。絵里子はけっして視力は良くはないが、運転席の人物の眼鏡が光に反射していることはフロントガラス越しに容易に確認できた。その人物がだれであるのか、そして自分がその人物の手のひらの上で転がされていたのだということを悟った。
「(あのお客さんが鍵を落としたかもしれないなんて・・・おそらく嘘なんだ・・・。)」
絵里子は、もっともっと泥だらけになっていく自分の姿に陶酔した。
(作・ジュテーム家康)
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