教育実習生時代の記憶
暑さの厳しい日が続く中、絵里子は教育実習生の女子学生たちへの着衣水泳指導のために練習に励んでいる。ここ数日の間は毎日、帰宅前の30分くらいはスーツを着たままプールに入ってずぶ濡れになるのが日課だ。
教師としてベテランの域である絵里子は、スーツを数十着は保有している。連日、クローゼットの奥に眠っている、もう着ないであろうと思われるスーツを取り出しては練習のために通勤時のスーツとは別に持参してきている。
昨夜も、もう着ないだろうと思われるスーツをクローゼットの奥の方から取り出そうとしていた。奥のまたその奥に・・・取り出してくれと言わんばかりに絵里子をなぜか引きつけたスーツがあった。それは、絵里子が教育実習生の時に着用していた「思い出の」リクルートスーツであった・・・。
就職活動をしていた頃、絵里子はいくつかのメーカーや商社も回っていて、本命は某大手の商社であったが、結局本命を含め、どこの会社からも内定をもらうことができず、教育学部という自分の立場を生かして教員免許取得へと大学三年時に、急遽、舵を切り、首尾よく教員になれたという過去があった。
・・・教育実習生時代の絵里子・・・
今、絵里子は着衣水泳指導を受ける女子数名と一緒に、リクルートスーツ姿でプールサイドに立っている。
みんな、タイトスカートのおしりには深くて長いヨコ皺が何本かあり、お尻部分の生地はテカって見える。ジャケットの背中にもしわがあり、就職活動でかなりスーツを着こなしているということを物語っていた。
当然、この着衣水泳実習には、何着か持っているスーツの中で一番古くて着こなされたスーツで臨み、着替えにはまだそれほど着ていない新しめのスーツを持ってくるのが普通だ。着衣水泳実習では、教室での授業実習時の服、つまりスーツで参加することが義務図けられていたからだ。
絵里子は、そうしたことも踏まえ、着衣水泳実習に備えてスーツを1着新調していた。黒の2ボタンで無難なデザインだ。教師になってからでも着用できるようにとの思いもあった。
絵里子はなんと、今、今朝おろしたばかりのそのリクルートスーツを着てプールサイドに立っている。新品でしわひとつないスーツを着ているために逆に絵里子は目立った。
実は、今日、実習の一つとして「着衣水泳」があることをうっかり忘れていたのだ。絵里子は泣きそうな気分だった。着衣水泳実習があることを忘れていたために着替えなど持ってきていない。おまけに、今着ているのは新品のスーツだ。
しかし、そんな絵里子の気持ちはおかまいないしに実習は淡々とスタートしていく。当然といえば当然のことである。
指導教師の号令がかかる。
「では、みなさん、プールの中に入る前に準備体操しましょう!」
参加者たちはみんな腕立てや腹筋を数回こなし、ストレッチも念入りに行う。絵里子もこの先のことを考えながら腹筋をしていた・・・。
シャーー。シャーー。
突然、どこからともなくシャワーがスーツに降り注いできた。土砂降りとまではいかないが、本降りの雨のような水の勢いである。絵里子だけでなくほかの女子学生たちのスーツにも降り注いでいる。
「今日はスーツは濡らした状態でプールに入ります。服を着たまま濡れた状態の感覚を覚えてもらうのが今日の実習の目的ですので。」
絵里子のスーツは今朝新調したばかりのため、水をはじいていたがしばらくシャワーを浴びているとさすがに水が徐々にしみ込んできた。たちがると、水をずっしりと吸い込んだスーツの重さを感じた。
プールサイドに座りバタ足をしたり、自分に向かって水をバシャバシャとかけてさらにスーツを濡らしていくと、水の冷たさにも慣れてきたのでプールの中に入っていった。
まずは浅瀬でスーツを着たままの状態で水中感覚になれたら、何度ももぐり、頭から全身が水に浸かった状態で自由な動きがどのくらいできるかを確認した。その後、プールの中でビート板の浮力を借りて、自分の体を浮かせることをした。最初のうちはビート板を使ってもなかなかうまく浮くことができないが、しばらくすると水面にあおむけの状態で浮くことができた。ずぶ濡れになったリクルートスーツのスカートやジャケットが水面から出て室内の蛍光灯のあかりに反射して光沢を放っていた。
「最後に、泳げる人は着衣水泳を体験してください。」
と指導教師がいうと、絵里子はじめ数名の女子学生がずぶ濡れとなったスーツ姿のまま再度プールに入って泳ぎ始めた。中には泳げない参加者もいたが、彼女たちは後日、水泳教室を受けることになっている。
絵里子は、小学生時代にスイミングスクールで一通りの泳法をマスターしたが、スーツ姿で泳ぎにくいということもあり、平泳ぎをした。久しぶりに泳いだが、いい感じの泳ぎだ。
おろしたてのリクルートスーツで泳いでいることを忘れてた・・・。ずぶ濡れのスーツ姿でこのまま帰宅しなくてはならないことも今は頭の中にはなかった。
スーツのまま泳ぐことが、こんなにも気持ちいいのかという意外な発見に驚いていた。
その感覚を堪能していると、周囲が明るくなった。
今、絵里子は、昨夜クローゼットの奥から取り出した、思い出の詰まった黒のリクルートスーツを着て、プールサイドに立っていた。
(おわり)
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